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平成28年10月
 
鹿島高等学校創立120周年記念誌への祝辞
『「赤門」に見守られて』

 佐賀県立鹿島高等学校が創立一二〇周年を迎えられますことに、心からお祝いを申し上げます。
 鹿島高等学校は、佐賀鍋島藩御三家の一つである鹿島藩の教育の伝統を受け継ぎ、「佐賀県尋常中学校鹿島分校」として開校しました。以来、幾多の変遷を経ながら、常に地域の教育の中枢を担い、各界で活躍する人材を輩出してきたその功績に対し、敬意を表します。

 鹿島藩の教育の歴史は、一六六九(寛文九)年、もともと藩主の勉強部屋だった「養花堂」が藩校となり、藩士が通い始めたのがその始まりと言われています。中でも、幕末から明治にかけて鹿島を先導した十三代藩主鍋島直彬(なおよし)公は、教育の大切さを知り、学生こそ「国家将来の後継者で国家の柱石となるものである」という強い信念を持っていました。
 直彬公は、「佐賀県尋常中学校鹿島分校」開校の際、もとの藩校「鎔造館」の建物・備品一式を寄付し、さらに学校の敷地として旧鹿島城址の境域を無償で貸与したそうです。また、折々中学校を訪れて、我が子に対するように温かい眼差しで、学生の心得や人としての道を懇々と諭されたという優しさにあふれた人物でもあったと伝えられています。鹿島藩最後の藩主となった直彬公は、新たな時代を見すえて、故郷鹿島の未来を支える「人づくり」に全力を注ぎました。

 直彬公の教えを受けた学生の中に、「青年団の父」と称される田澤義鋪氏がいます。氏は、明治・大正時代に地方の農村において、学校教育とは無縁で教育的に恵まれなかった勤労青年に目を向け、教育・自己修練の場を与える活動を展開しました。人を育てることによって国の礎は創られるという考えが、鹿島の地でしっかりと受け継がれているのです。
 祖先から子孫へと引き継がれ続いていく文化や生活――いわゆる「縦の永遠の生命」を抱きつつ、家族や地域、国といった「横の無限の広がり」の中で、一人ひとりが互いに影響しあい、ともに営んでいくものだという氏の人生観には、私も深く共感したことを覚えています。

 「至誠一貫 自ら進んで捨石たるに甘んぜよ」とは、旧制鹿島中学校の校訓です。「誠実に生き、人のため社会のために尽くす人物になろう」というこの校訓は、直彬公や田澤氏の考えに通じるものです。鹿城生の皆さんも、鹿島高等学校の「至誠 自立 創造」の校訓のもと、地域や国、そして国際社会の発展に貢献することができる人間となるべく、学業に部活動にと励まれてきました。
 卒業生の皆さんがそうした高校時代を振り返った時に真っ先に心に浮かぶのは、満開の桜に囲まれて、どっしりと構える「赤門」の凛々しい姿ではないでしょうか。
 地元の人々に親しまれ、鹿島市のシンボルでもある立派な丹塗りの門は、一八〇八(文化五)年に建立され、幕末維新の動乱の中、長崎警固や戊辰戦争に赴く藩士たちを、佐賀の役で焼け落ちる鹿島城のすがたを、目の当たりにしてきました。そして今、鹿島高等学校の正門として、百年以上にわたって多くの青年たちを見守っています。
 私の父も福富村から鹿島高等学校に通った卒業生で、父からは赤門のプライドを常日頃から聞いていました。鹿城生にとっての「赤門」は、鹿島の古の歴史を語り、無限の励ましと希望を与える存在であるとともに、大きな心の支えになっています。

 今も鹿城に集う生徒の皆さんは、「赤門」に見守られながら、連綿と続く藩校の教えを胸に、仲間と共に心身を鍛練し充実した高校生活を送っておられます。生徒の皆さんが、卒業後も「至誠一貫」で自らの持てる力を存分に発揮し、それぞれの場所で活躍されることを願っています。

 最後になりましたが、これまで鹿島高等学校の教育に温かいご支援を賜りました皆様に深くお礼を申し上げますとともに、これから鹿島高等学校が飛躍と発展を続け、未来を担う豊かな人材を送り出すことに大いなる期待を寄せて、お祝いの言葉といたします。